国宝の「仏殿」と「山門」

「法堂」の中から外を見る

高岡山 瑞龍寺は加賀三代藩主前田利常が二代藩主前田利長の菩提をとむらう為に建立されたとなっていますが、調べたら元々は利長が慶長18年に曹洞宗の法円寺という名で建立した寺でした。利長が他界し、その亡骸が法円寺に葬られた時に利長の院号にちなんで瑞龍寺と改称。その後、利常が新たに寺の建物の造営をはかったのですが、なんとそれには約20年の歳月を費やしたそう。当時は3万6千坪もの広さを持ち、それはすばらしいものだったと思われます。
しかし、長い間放置され、管理する者もなく荒れ放題になっていたのを、バブル景気真っ盛りの頃、監督官庁が大型予算をつけ、大修理の後、平成9年に「山門」「仏殿」「法堂」の三棟を国宝に指定しました。詳しい事は他の方がいくらでも紹介しているので、私が行った時に説明をしていた語り部さんの話の中からちょっとだけ。
利常が建てたかったのは本当はお城だったそう。しかし、この時幕府からは一国一城令が出されており、城を建てることはできず、そこで考えた末に寺の様に建てるという案を思いつきました。外観は寺でも装備は城に匹敵するものだったことを証明しているのが、仏殿の鉛板の屋根や周りの堀だそう。この鉛の板葺きというのは全国でも金沢城石川門とここの二例しかないそうですが、戦いの時に溶かして鉄砲の弾にする為だったと教えてくれました。今はもうありませんが、昔は山門の前に内堀、八丁道の辺りに外堀がありました。やはりこれも敵から身を守る為だったと思われます。
本来なら寺の参道には必ず、食事処や土産物屋が軒を連ねていますが、この瑞龍寺には一切なく、こんなところからも普通の寺ではなかったことが窺われます。


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