河井寛次郎、「民藝運動」に共感する者なら誰しも知らぬものは無い程の巨人です。私は焼き物で知られた伊賀の山里で生まれ育ったので、割と幼い頃から焼き物に関心&興味を示していました。小学5年生で習った社会科の授業で、日本の歴史を学び古い物に徐々に惹かれて行きました。それが今の古い建物や骨董好きに繋がってきているのだと思います。
車を購入してからは遠方まで出掛けては古寺や美術館に行く事も多々ありました。そんな流れの中で「民藝」を知りました。
柳宗悦が東京・駒場の自邸隣に開設した「日本民藝館」や濱田 庄司が自ら蒐集した日本国内外の民芸品を展示する「益子参考館」も行った事があります。しかし、幾度となく来ている京都の河井寛次郎記念館には、未だ来た事がありませんでした。今年没後50年を記念し各地で色んな展示会が催されており、この機会に是非訪ねてみたいと思い、今回の京都旅行を計画しました。
ここで河井寛次郎について少しだけ。陶芸家ですが他にも彫刻、デザイン、書、詩、詞、随筆などの分野でも作品を残しています。師弟関係を重んじる陶工の世界にあって、学校という教育機関にて指導を受けた新しい世代の陶工です。東京高等工業学校に入学、陶芸家の板谷波山の指導を受けた他、窯業の科学的研究を行ないました。東京高等工業学校卒業後は、京都市陶磁器試験場に入所しました。1920年、五代清水六兵衛の技術的顧問を務めていた縁で京都・五条坂にあった彼の窯を譲り受け、「鐘渓窯」と名づけ自らの作品制作を開始しました。同年、京都の宮大工の娘・つねと結婚しました。
1926年、柳、濱田と共に日本民芸美術館設立趣意書を発表しました。古い日用品を発掘しその制作のための技術を復活させ、無名職人による日用の美を世に広め、新しい日用品を制作し普及しようとした「民藝運動」に深く関わるようになりました。その後は無位無冠の陶工とし晩年まで創作活動を行い1966年に76歳で没しました。
実は今回訪れた河井寛次郎記念館は1937年に完成したものです。1920年に譲り受けた家は1934年9月21日に高知県室戸岬付近に上陸し、京阪神地方を中心として甚大な被害をもたらした室戸台風によって損壊しました。河井寛次郎はこれを契機に自宅を日本各地の民家(主に飛騨高山)を参考にしつつ、登り窯の形に対応するような構造をした新しい自宅兼仕事場を自ら設計し、宮大工である妻の実家とも協力して完成させました。 *ウィキペディア参照 撮影とHP掲載は許可取得済。

2016年10月10日現在


囲炉裏端

素焼窯

京都式? 一寸変わった形の〆縄

自在鉤と大うす、自らデザインした椅子

2階から囲炉裏端を望む

登り窯

陶房・けろくろ

李朝の御膳

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